自森人-自由の森学園の人-の読書ブログ
ある朝のこと。銀行員ヨーゼフ・Kのもとに突如として男たちが現れます。彼らは監視人だと名乗り、すでにKは逮捕されていると宣告します。しかし、なぜ逮捕されるのか全く分からないし、連行されることもありません。ですが、審理はすでに始まっていました。Kは無実だと訴えますが、法廷やその背景にあるらしい組織は訳が分かりません。そして、なぜかKはすでに有罪だと決まっているようです。Kは弁護士や法廷に出入りしている画家に頼ろうとするのですがますます訳が分からなくなり、最後には犬のように処刑されます・・・
1914年から書き始められた未完の小説。断片が断片として収録されています。
感覚的に把握することが出来ない巨大な組織・システムの怖さ/分からなさが、分かりやすく書かれています。ヨーゼフ・Kはなぜ裁かれるのかさっぱり分かりません。しかし、裁かれます。最初から結末が決まっているところは、ギリシア悲劇のよう。しかし、機械的にまずい立場へ押し込まれていくKは決して英雄ではありません。単なる銀行員です。だから、物語自体が少し滑稽になってきています。
Kはいつでも女性にまとわりつかれます。物語の一番最後には、断片「母親訪問」があります。ですが、Kにとって女性とのつきあいというのが何か分かりません。もしかしたら単なる息抜きなのかも。彼にとって最も大切なのは、銀行員としての仕事です。ようするに、かつては俗悪といわれた貨幣のやりとり/金融業なわけです(しかも金融業といえば、ユダヤ人が連想されます)。Kは女をひき寄せ、金融業を行う俗物のユダヤ人だから裁かれたのかも、と考えることもできます。
「大聖堂にて」では教誨師が登場し、Kに向かっていろんなことを語ります。教誨師は別個の短編として知られている『掟の門』のあらすじを説明し、解説まで加えるのですが、その部分は非常に面白いです。非常に大切なことが書かれている気がします。
法というものは、根本的に人間を容れないものなのであると示しているのかなぁ。あるいは、法というものはなんであれ人を束縛し、断罪するものだということか。その場合の法とは、自分の外側にあるものではなく、心の内側にある倫理観のようなものみたいなのですが。近代化が進み、神/つまり外側の法が消えたために内側の法(倫理観)も矛盾に悩まされ、破綻するということを示しているのか。
読んだ本
フランツ・カフカ『審判』
読んでいる本
G・K・チェスタトン『ブラウン神父の童心』
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