絲山秋子の短編集。『イッツ・オンリー・トーク』『第七障害』収録。
『イッツ・オンリー・トーク』
橘優子は精神病を患い、会社を辞めて、貯金を切り崩しながら暮らすうちに、画家になりました。ある時、なんとなく、蒲田に引っ越します。彼女は、EDの議員、鬱病のヤクザ、痴漢、いとこの居候に囲まれながら、毎日を過ごすのですが。著者のデビュー作。第96回文學界新人賞受賞・第129回芥川賞候補作。
『第七障害』
順子は乗馬を愛していました。しかし、障害を乗り越えようとした時、馬が脚を折ってしまいました。そして、その馬は安楽死させられてしまいます。順子は「私が馬を殺したんだ」と感じて乗馬をやめてしまうのですが・・・
非常に巧みであるということができます。サラリとしているのに、全体はよく計算されています。しかし、巧さが各所に覗いているため、微妙にわざとらしい、気もします。
『イッツ・オンリー・トーク』のテーマは、たぶん、関係です。人間同士の関係が非常に薄い気がするのですが、その薄さは意識的につくられたもののようです。実はそこまで薄くないのかも知れない、と感じます。
隣り合うことはできても、分かり合うことはできないという諦観は現代的です。しかし、それでも、人間は、ガラクタのような人間の中にいなくては人間になることはできません。他者からの承認が、人間を支えるのです。だから、結局人間は人間の中に戻っていきます。
『イッツ・オンリー・トーク』は、社会からはずれた者たちの場所を描き出します。しかし、はずれた者たちは珍しくありません。そういう人間が社会の大部分を占めているのではないか、と感じます。
読んだ本
絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』
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ブッダ、束縛という名の息子ラーフラ、孫のティッサ・メッテイヤの物語。ブッダは夫となり、子供を得ることで変化します。何らかの悟りではなく、子供というものが最終的には出奔を招くのです。ラーフラは幼い頃から、驚異的な記憶力に苦しめられてしまいます。そして、やはり出奔してしまい、性欲に負けて女を抱き、息子ティッサ・メッテイヤを得ます。
小説。
非常に、薄いです。しかし、その中に、多くのエピソードが詰め込まれています。一つ一つが魅力的。多くのテーマを発掘していくことができます。物語がもつ無限の可能性を孕んでいるということができるかも知れません。
時間がするする、さらさら流れていくので、三代のことを綴ることができています。その流れが妙に良いです。
日本語としては関節が外れているようになっていて、妙に慣れません。表現としても微妙な部分も少なくありません。しかし、その文体が、逆に面白みを生んでいるということもできます。この物語の流れにあっている気がします。
確かに面白いです。しかし、褒められすぎなのではないか、と感じないでもないです。長さは操作できるのです。そして、奔流ということはできないものを短く書くことは容易です。
しかし、前途は有望といえます。
読んだ本
磯崎憲一郎『肝心の子供』
著者たちは、中国文学を総合的に考察していこうとします。「第1章 中国文学の性質」「第2章 詩文」「第3章 文学評論―「読むこと」を中心にして」「第4章 詞」「第5章 戯曲」「第6章 小説」「第7章 文学と書画」「第8章 古典文学と現代文学」から構成されています。
多くの情報が圧縮されています。しかし、よく整理されているので迷うことはありません。
読んでいると、中国では、詩文が文学の中でもとくに高等なものとみなされていたということが分かります。だから、中国文学を語る時、まず欠かせないのは詩文です。とくに唐代の李白と杜甫が最高と言われます。
しかし、詩文の他に、多くの文学も生まれました。戯曲の発展についてつづられている部分は面白かったです。戯曲というものが中国でも隆盛だった時期があったということを全く知りませんでした。
それから、小説も下等なものとみなされていたそうです。しかし、民衆が発展させていき、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』『金瓶梅』などが生まれたのだそうです。文語体の尊重は、中国古代からの伝統なのかと感心しました。しかし、近代以前はどこでも文語体が第一とされていたかも知れません。
『中国文学を学ぶ人のために』を参考にしながら、個別の作品を読んでいきたいと思います。
読んだ本
興膳宏:編集『中国文学を学ぶ人のために』
『人類は衰退しました』シリーズ5作目。人類が衰退して数世紀がたちました。人類最後の学校を卒業し、調停官となった旧人類の少女の私は、新人類「妖精さん」たちと仲良くなります。妖精さんたちはお菓子が大好きな小人さん。わらわらと集まるととんでもないことをしでかすのですが、すぐに散らばってしまいます。『妖精さんの、ひみつうのおちゃかい』『妖精さんの、いちにちいちじかん』収録。
『妖精さんの、ひみつうのおちゃかい』は、主人公私の学舎時代の物語。過去の出来事がつづられています。学園もののパロディのようになっています。私は友達を孤立しているため苛められています。そして、同じく孤立していたYと犬猿の仲になるのですが・・・
『妖精さんの、いちにちいちじかん』は世界がドット絵のゲームになってしまう物語。笑えますが、結構、シュールといえるかも知れません。著者は徹底的に遊んでいるみたいです。
物語の中には、多くのパロディが詰め込まれています。
しかし、ストーリーに捻りがありません。なんというか、冴えていないのです。ライトノベルのシリーズものがダラダラしてくるのは、しようがない必然なのかも、と思わないでもないです。
読んだ本
田中ロミオ『人類は衰退しました⑤』
「自伝的エッセー」と銘打ってありますが『水源をめざして』を読むと確かに遠山啓という人のことが、なんとなく見えてきます。結構、遠山啓は直観に頼って大胆なことも書いています。だから逆に面白いです。遠山啓の文章は単なる思い付きではなく、広範の知識に支えられています。遠山啓の博識がよくわかります。
多くの事物を扱っているのに文章は極めて平易です。意味を汲み取ることができない文章やゴマカシはありません。
「読書の七癖」という章がとくに面白いです。いろんな本が紹介されています。自著『無限と連続』を書きなおすべきか、なおさざるべきか、という話から始まり、次に来るのは竹内好『中国を知るために』。漢文が「軟体動物のようにとらえどころのない純日本式の文章に、論的な骨格をあたえてくれた」のではないか、と指摘します。
それから、ユークリッドの『原論』などが紹介されています。『原論』の反対が、デカルトの『幾何学』なのだそうです。そうだったのか・・・
そういえば、「敗戦は私の精神の深部にはほとんど影響をおよぼさなかったように思う」と遠山啓は記しています。遠山啓は特異な人間だったようです。
読んだ本
遠山啓『水源をめざして』
短編集。『グランド・フィナーレ』『馬小屋の乙女』『新宿ヨドバシカメラ』『20世紀』収録。
表題作『グランド・フィナーレ』はロリコン男の物語。男は娘を含めた数人の少女の裸体を密かに撮影していました。その事実を知った妻と揉み合いになり、妻を負傷させています。その後、強制的に離婚させられて郷里に帰るのですが、少女たちから演劇の指導をお願いされて・・・ 第132回芥川賞受賞作。
『グランド・フィナーレ』の主人公は妙な愛嬌を持っている情けない男です。過度に危ないわけではなく、微妙に危ないだけだから、一般的な生活の中に溶け込んでいくことができます。そういう人間は意外に多いのではないかと感じないでもないです。
しかし、現実に近寄っているためなのか『グランド・フィナーレ』は妙に安いです。阿部和重の作品によくあるいくらなんでもないだろう、という驚きがないのです。もしかしたら、『グランド・フィナーレ』は阿部和重作品の中では微妙な部類に入るかもしれない、と思いました。
『新宿ヨドバシカメラ』のほうが『グランド・フィナーレ』より、面白い気もしました。奇妙な事物の結合が行われています。
阿部和重は多くのいかにも「現代的」な事物を徹底的に散布して、そこから、暗号としての意味を取り出す名人ではないか、と感じます。会話の描写が巧みです。文章はサラサラサクサク流れていくので、読んでいると心地よいです。
読んだ本
阿部和重『グランド・フィナーレ』
叔父は旅に出た後、行方不明になってしまいます。私は、叔父に関する小説『アサッテの人』を完成させようとしましたが、その度に頓挫します。それなので、叔父に関する記憶、書きためてきた叔父に関する草稿、叔父の家に残されていた三冊分の日記をそのまま並べていきます。叔父は「ポンパ!」や「チリパッパ」といった言葉を唐突に発する奇癖を持っていて・・・
愉快な小説。
物語の主題は言葉です。叔父が、言葉と観念にとりつかれて四苦八苦する様が様々な角度から綴られています。その結果、言葉のわからなさのようなものが浮き彫りになります。
叔父は変人です。叔父のことをそのまま書き記したら、喜劇的な不条理小説が完成するはずです。しかし、『アサッテの人』は全てを突き放して、不可解に没していくわけではありません。狂気の世界に飛び込んでいくわけでもありません。
叔父を近くから見ていた私が常識を踏まえて綴ります。奇天烈は客観的に扱われていくのです。だから、奇天烈が徹底的に突き抜けることはありません。そういう構造自体は平凡かも知れません。作中に登場する小道具も古臭い気がしないではないです。ベケットか、という感じです。
しかし、諸々の要素を詰め込みながら、最後まで崩れません。なんとなく、「典型的な小説」と呼びたくなります。突き抜けて欲しいと思わないでもないですが、それでも、このとどまる具合がいいのかも知れません。本当に面白いです。
第50回群像新人文学賞、第137回芥川賞受賞作。
読んだ本
諏訪哲史『アサッテの人』
日本の評論家・批評家・活動家・表現者・文化人たちを簡略に紹介したもの。登場するのは、内田樹、小熊英二、藤原帰一、湯浅誠、雨宮処凛、金子勝、斎藤貴男、宇野常寛、前田塁、菊池成孔、山下裕二といった人たち。押さえるべき点はだいたい押さえています。非常に面白いです。
永江朗の評価は、客観的とはいえないかも知れません。しかし、いつでも人間は偏らざるを得ません。著者なりの見識が明確に示されていて非常に面白いと感じます。小熊英二の項目を読んでいると、著者の福田和也嫌いが伝わってきて楽しいです。
藤原帰一に対する評価は同感です。それから湯浅誠が現れるまで日本に貧困はなかった、という表現は適切。著者は素朴な感想を述べているだけのように見えますが、実はけっこう周到です。
菊池成孔の本を読んでみたいと感じました。
読んだ本
永江朗『新・批評の事情―不良のための論壇案内』文庫版
37人の人間が本に対する思いをつづっています。電子書籍が本格的に広がろうとしています。その時、本という媒体はどうなるのかということを各々の人が考察していきます。本を愛している人が多いです。だから、当たり前ですが、「それでも本は残るだろう」という人が多いです。残るべきだ、という思いを持っている人も多いようです。
僕も紙の本を大切にしたいと思っています。紙の本が残らないはずはないとも考えています。しかし、そういう考えは、甘いのかも知れないと思わないでもないです。そういうふうに様々なことを書いているのもインターネット上なのだから・・・
紙の本は、電子書籍が出現したから衰退しているのではなく、構造的に自壊しつつあるのかも知れない、という土屋俊の文章が最も印象に残りました。若者が減っているから、すでに本を買う人がいないのではないか・・・
内田樹の文章はやっぱり面白いです。嫌いなのですが。
読んだ本
池澤夏樹編『本は、これから』
鉱物資源が水星から噴き上がり、直径8000万キロのリングに変化していき、太陽を取り巻くようになりました。そのリングが太陽光を遮るため、地球の気候は激変、数億人の人間が死亡しました。科学者・白石亜紀は、巨大リングを破壊するため宇宙艦艇ファランクスに乗り、宇宙へ赴きます。そのリングは生命体なのか、それとも機械なのか・・・
良質のSF小説。
野尻抱介のSF小説はずいぶん読んでいますが、どの小説もライトなのに本格SF(いわゆるハードSF)として成り立っています。
人類が持つ宇宙に広がろうとする意志・人類が宇宙に広がっていく意味を何度でも問い直していき、同時に人間とは何なのか、意識とは何なのかといった諸々の問題も扱っていきます。題材とその組み合わせ自体は古典的。
しかし、細部もきっちりとつくられているので、非常に面白いです。焼き直しではなく、発展になっているのです。
クライマックスの部分は別に衝撃的ではありません。ありふれた展開といってしまっても過言ではありません。しかし、安易に逃げないことに感心しました。何と言ってもエピローグが格別です。エピローグが『太陽の簒奪者』という物語を傑作にしているような気もしました。
読んだ本
野尻抱介『太陽の簒奪者』
前篇を吉川幸次郎が、後篇を三好達治が記しています。前篇はよく整理されています。とくに杜甫、李白、王維の詩が多く紹介されています。それから、孟浩然、常建、王昌齢、崔国輔の詩も少しずつ紹介されています。吉川幸次郎は漢詩を現代的な日本語に訳しながら、説明していきます。わかりやすいです。それから、三好達治は様々な領域に話を広げていきます。その拡散は面白いです。
唐詩入門。
吉川幸次郎は著名な中国文学研究者。三好達治は日本の詩人。『新唐詩選』は名著として知られているそうです。読んでいると、唐詩のことがわかります。
もちろん、唐詩のすべてが紹介されているわけではありません。しかし、吉川幸次郎は唐詩全体を踏まえた上で、そのエッセンスを掬い取ろうとしていきます。内容はよく整理されています。
一方、三好達治は人の心を打つものとして、漢詩を自分の身・経験に引き付けながら紹介してきます。詩人のありかたと漢詩の関わりが見えてきて面白いです。
読みながら、人間に影響を与えるものとして詩がありえるだろうか、詩が力を持ち得るのだろうか、と感じました。詩というのはなんなのだろう・・・ 難しい・・・
読んだ本
吉川幸次郎、三好達治『新唐詩選』
宮崎市定は、『水滸伝』を、歴史学的に読み解いていきます。しかし、それほど堅苦しくはありません。逆に楽しいです。『水滸伝』を読んでいてもわからない部分が、くっきりと見えてくることがあります。たとえば、悪役として非難されている奸臣たち(童貫、蔡京)が実際には何をしたのかということがわかります。頻出する官職名が何を示していたのかということがわかります。
宋江は二人いた、という面白い考察も含まれています。官軍の宋江と賊軍の宋江がいた、ということが資料を読み解くとわかるそうです。それから、『水滸伝』の物語の舞台になっていた時代の少し後に、梁山泊に立て籠もった人間がいた賊という話もあります。
浪子(たとえば、徽宗も)が溢れる時代というのは恐ろしいかも知れない、と感じました。しかし、それだけ豊かだったということでもあるはずです。
宋という時代を覗き見ることができます。非常に面白いです。
読んだ本
宮崎市定『水滸伝‐虚構のなかの史実』
バレー部の桐島が突然、部活をやめます。その波紋は少しずつ広がっていきます。野球部ユーレイ部員の菊池宏樹、桐島と同じバレー部の小泉風助、ブラスバンド部部長の沢島亜矢、映画部の前田涼也、ソフトボール部の宮部実果のことがつづられます。そして、高校にある確固とした「階級」のようなものが明らかにされていきます。桐島は最後まで姿を現しません。
青春小説。
文体が印象に残ります。耐えられない人もいるかも知れない、と感じます。その文体に対する評価が、『桐島、部活やめるってよ』に対する評価に直結します。
小説としては秀逸。個々の描写と小道具が適切に機能しています。そして、短編同士は微妙にすれ違っています。桐島の物語に収まっていかない点は、逆に面白いです。完成度は高いのです。誰でも楽しむことができるのではないかと感じます。
著者は、若者の「リアル」に徹底的に寄り添っているようです。そして、そのリアルという言葉は微妙に恥ずかしいものです。しかし、そういう感覚はないのだろう、と思います。誰もが、『桐島、部活やめるってよ』の中にこそ若者の現実があると言いながら絶賛していますが、本当に、現実が綴られているのだろうか、と感じました。本当の現実は読めたものではない、と思うのですが。
小説すばる新人賞受賞作。
読んだ本
朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』
『李白 巨大なる野放図』『杜甫 偉大なる憂鬱』は大学入試の論文を書くとき、参考にした本。再読してみました。ラジオで放送されたものをまとめて本にしたもの。二人の人間が語り合いながら詩人の姿を明らかにしていくので、非常に読みやすいです。そして、要点はしっかりとまとめられています。
李白、杜甫は、漢詩という表現方法が最も輝いていた唐の時代に生きました。そして、多くの漢詩を作り、漢詩界の中では、最も偉大な人たちとして称えられています。しかし、二人は対照的です。
李白は豪放。いつでも飄々としていました(実はそういうわけでもなかったらしい、ということが『李白 巨大なる野放図』を読むとわかりますが)。各地を放浪し続けました。一時は、皇帝からもその詩の才能を愛されたそうです。一方、杜甫は誠実。一生、妻子を大切にしました。しかし、官途には恵まれず、反乱に巻き込まれることもありました。苦労人なのです。しかし、漢詩の世界では漢詩の神ともいわれています。
憂鬱が漢詩を面白いものにしていくのかもしれません。
参考文献を追っていくと、さらに面白いかも、と感じました。
読んだ本
宇野直人、江原正士『李白 巨大なる野放図』(再読)
宇野直人、江原正士『杜甫 偉大なる憂鬱』(再読)
腹宗が崩御。新皇帝のための後宮がつくられることになります。好奇心旺盛な少女、銀河は「三食昼寝付き」という言葉に誘われたのか、後宮に赴きます。まずは、女大学で学ぶことに。銀河は、冷静沈着いつでも寝巻を来てタバコを吸う江葉、貴族的傲岸さを持つ美女・世沙明(セシャーミン)、さらなる優雅さを持つ玉遥樹(タミューン)と同室になります。女大学では、瀬戸角人らから後宮哲学・房中術を学ぶのですが・・・
愉快な傑作。
「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」といった文献を参考にしながら物語を記したと著者は延べています。中国の歴史小説のようです。しかし、実はすべてが虚構。
文章は軽快。物語自体も軽くて、いつでも確固たるものからのがれていき、捉えられません。著者は恍けています。戦も、セックスも淡白にさらさらと扱っていきます。その雰囲気は、沸々している中国の物語を思わせます。非常に良いです。
渾沌という人物が結構おもしろいです。『後宮小説』自体をあらわしているのではないかと感じないでもないです。とにかく、登場人物たちは非常に魅力的。小さなエピソードが、各々の登場人物をくっきりと描き出していきます。そして、クライマックスは切ないです。
非常に面白いです。
第一回ファンタジーノベル大賞受賞作。
読んだ本
酒見賢一『後宮小説』
ジョナサン・ゲイツは、クラシック座の共同経営者であるクレアという女性に出会います。クレアはセックスの最中に映画のことを徹底的に講義する人物でした。ジョナサンは徐々に映画に詳しくなっていきます。その後、グロテスクな映像を作成していたマックス・キャッスルという映画監督を知ります。マックス・キャッスルの映画は「B級」扱いされていましたが、その映像は不気味な魅力を持っていました。ジョナサンはマックス・キャッスルのことを探っていくのですが・・・
映画に関する小説。
大著。しかし、結構読みやすいです。基本的には、ジョナサンという青年の青春物語になっています。徐々に、マックス・キャッスルの映像の背後にある壮大な陰謀が明らかにされていきます。
マックス・キャッスルが制作したという、多くの架空の映画が紹介されていきます。その描写は秀逸です。映画を見ている気分になります。
登場人物の中には奇妙な人が多いです。しかし、ありえない、と感じることはありません。それなりに説得力があるのです。
映画や宗教に関する薀蓄が溢れています。現実と虚構が入り乱れているそうです。しかし、映画のことはよく知らないので、ほとんどわかりませんでした。しかし、マックス・キャッスルという人物を作り上げてしまった著者には感心します。
映画が好きな人はさらに楽しむことができるかも知れません。
読んだ本
セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』
林達夫、久野収の対談をまとめた一冊。林達夫が基本的には語ります。しかし、林達夫の言葉を理解して受けるのは簡単なことではありません。久野収も物凄いです。両人は、博学です。しかし、知識が単に陳列されているわけではありません。その根底にあるのは、「レトリック」の問題である、という説明は誤りにはならないかも知れません。
一応最後まで読んでみましたが理解するのは容易ではありません。言葉自体は、基本的に平易です。しかし、あふれている固有名詞が理解を困難にしていきます。多分、少しもわかっていないです。
発見が満ちているということができるかも知れません。あらゆる方向にリンクが張られているようです。再度読む時、さらに多くのことを発見するような気がします。
全く敵わない、と感じます。真似することもできないとも思います・・・
読んだ本
林達夫、久野収『思想のドラマトゥルギー』
中国思想に関する本。編者たちは、とくに老荘思想・仏教・道教を問題にしながら、春秋時代から清代までをたどっていきます。入門書的な位置付けなのかもしれませんが、逆に、視野が非常に広くて、一点に凝り固まることがなく、面白いです。多くの思想が、誤解されながら、徐々に広がっていく様子が伝わってきます。
中国思想の解説書。
思想は単純に発展していくわけではない、ということが、よくわかります。人から人に伝わる時、変容していくのです。時には絶えます。そして、解釈が一つの思想を分断していくこともあります。別の思想や、権力に利用されることもあります。
その思想の変遷は、発展であると考えることはできない気がします。単なる変遷です。
『荘子』の思想は面白いです。根本には言葉に対する不信があります。そして、言葉を用いて世界を分節していては心理をつかむことができない、だから、世界を一つのものとして受け入れていき、直観的に真理を悟るべきだ、と主張していきます。そういった思想は、昨今のポスト構造主義と呼ばれている思想家たちの思想につながる気がします。
デリダを思い浮かべました。
世界思想社。
読んだ本
森三樹三郎(編集)『中国思想を学ぶ人のために』
下村湖人は、孔子の言行を記した『論語』を現代的に読み直していき、『論語』を基にした短い物語を書きました。その物語を多数収録したのが『論語物語』。基本的には平易です。だから読みやすいです。そして、孔子の弟子たちが、現世的な欲を捨てることができない人間なので、面白いです。孔子も超人ではなく、人間のようです。
『論語』を平易に読み解いた書。
孔子は一生不遇でした。理想の政治を行うことができず、弟子とともに、各地を放浪し続けました。しかし、後世、孔子の思想は中国の基本として、体制からも、民間の人たちからも大切にされていきます。孔子は、イエス・キリストのようです。しかし、下村湖人は孔子を最も徳がある優れた人物として取り上げますが、絶対視しません。そのあたりが面白いです。
ハンセン病の伯牛と、彼を見舞う孔子のことをつづった物語がとくに印象的です。孔子はイエスのように病人を触るだけで治すことはできません。死んでいく弟子に対して、天命に従って、道とともにあれ、と説くのみです。受け入れがたい現実というものが眼前に現れた時、自分ならばどうするかと考えてしまいます。
『論語』という古典を自分の血肉にしていくことを下村湖人は目指したようです。そして、厳密な意味にこだわるのではなく、その精神に迫っていこうとします。
そのためには『論語』の原文を読解することが必要です。しかし、容易なことではありません。原文は簡潔なので、多くの解釈が生まれました。その中から、どの解釈を選択するか、ということは孔子の形、『論語』という書物をつくる、ということです。読むという行為は非常に創造的だ、と改めて感じました。
読んだ本
下村湖人『論語物語』
短い漢文・漢詩等が掲載されています。書き下し分のあとに、原文・語釈があるので、わからない部分は確認することができます。文字が大きいので、非常に読みやすいです。教訓的な説明などはとりあえず無視して読んでいくのが良いかも知れません。王維の漢詩「竹里館」「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯。深林人不知、明月来相照。」なども載っています。やっぱりいい、と感じました。
大正天皇の漢詩ものっています。純朴な雰囲気がいいです。大正天皇が漢詩創作を愛していたということを初めて知りました。そういう明治以前に大切にされていた学問、教養をなんとか受け継いだ最後の年代ということになるのかも、と感じました。
「虎穴に入らずんば・・・」といった有名なことわざも、のっています。
素読ができたら、楽しいだろう、とは感じました。そうしたら、自分の解釈を生み出すこともできます。漢文を勉強していて、改めて文章解釈の相違が、学問をつくっているのだと感じました。
読んだ本
古田島洋介『漢文素読のすすめ』
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